春はいつまで寝てるのか

旅についての記憶を。

ブダペストの夜警

ドアを開けた。そろそろ陽が落ちる。

仕事が始まる。

 


1週間分の食料も買い込んだし、久しぶりにセーチェニ温泉までいってきた。やはり日本人にとって温泉は力の源になる。

僕はブダペスト東側の地区に住んでいるので、歩いて橋を渡らなければならない。だから、仕事が始まる1時間前の時刻を確認してから家を出る。それはもう10年近く続いたルーティンだった。

 


遠目にブダ城を見ながら鎖橋を渡る。今日はデモが行われていた。辺りを見回しただけで10人以上の警察官がいる。

 


いつ見てもドナウ川は美しい。この景色に惹かれて移住してきたといっても過言ではない。近くにはウィーン、イタリアの諸都市、プラハなど美しい街がたくさんあるが僕はブダペストが好きだった。

 


「交代の時間だ」

 


「待ってたよ。マサ、今日はかなり寒いね。体に気をつけて」

 


警備員同士の会話は多くない。この歳になれば尚更だ。それでもアジア系の移民である彼は僕に少し気を遣ってくれていた。

もしかしたら彼は一度くらい僕の墓参りをしてくれるかもしれないな、と考えた。

 


3年ほど前までは漁夫の砦を担当していたが、僕の真面目な勤務態度が認められてブダ城へと担当替えになった。漁夫の砦は灯りも人も多いため、サボりにくい。一方でブダ城はわりに暗く、敷地が広いため人もまばらだ。ブダ城に来てからは、少し暗闇に対する怖さも出てきた。実際、ブダペストの夜景が美しいあまりに、呑み込まれていなくなってしまった人がいると聞いたことがあった。もちろん、あくまで噂ではあるけれど。

 


いつも通り、どこを見るでもなくしゃんと立つ。辺りはかなり暗いが、まだ22時前ということもあり観光客が多い。聞きなれた日本語はどうしても反応してしまう。自分にカメラを向けている彼女達は大学生だろうか。韓国やイタリアの国旗を掲げながら団体を案内しているガイドの方は景色を見ずに休んでいる。

やりたいことを仕事にするのは考えものだ。それとも、インドアだったのに就職活動の末にあまり好きではない旅行を仕事にしたのだろうか。誰もが旅行好きだというのは偏見だろう。

 


警備をしている間はこんなことをずっと考えている。24時まではこれで凌ぐことができる。ただ、次の交代があるのは3時だ。ここからが問題で、人もいなくなるし眠気も襲ってくる。俯く時間が増える。

 


こんな時間には珍しく、少年が走ってきた。辺りを見回すと、壁の上に登り座った。

その姿勢で写真を撮る観光客は多いので、それ自体は問題ではない。しかし、次の瞬間に少年の姿が消えた。

 


僕は急いで駆け寄り身を乗り出して壁の下を確認した。そこに少年はいない。腕に力を入れ乗り出した体を壁の内側に戻す。目線を左に移し少年を探すために一歩目を出す。はずだった。

僕は目線を左に移すときに、正面を見てしまったのだ。足は根が張ったように動かない。眼下には光り輝く鎖橋と国会議事堂が見える。

 


「勤続40年、お疲れ様でした!」

 


高卒で入った会社に骨を埋め、最終的には大卒資格も取りそこそこの出世もした。日常レベルのミスで叱咤されることはあったものの、大きな問題は起こさずに会社人としての役割を終えた。あまり頭がいいとは言えなかったが、気のいい娘を持ち孫も楽しみだった。

多くの先輩がそうしているように、妻を旅行に連れて行こうと思った。少し体調を崩しがちではあったが、出掛ける元気はあると思っていた。僕が半ば強引に連れて行った九州から東京に帰る飛行機の中で発作を起こして、そのままいってしまった。

 


僕は自分を責めた。はじめの頃は仕事仲間も慰めてくれていた。しかし、僕の頭がおかしくなったと噂が広がるのは時間の問題だった。見兼ねた娘は僕をハンガリーにやった。

 


あの少年のようにみえた影は、背中の小さな妻だったような気がしてきた。

視界には夜景が広がっていた。満点の星空のようだった。

 


僕は辺りを走り回った。石畳は膝に大きなカウンターパンチを与え、心臓は口から飛び出そうだった。

 


それでも壁に沿って走ると階段があり、全力で駆け下りた。上から少年の笑い声が聞こえた。僕はすぐに引き返すと途中手をつきながらその声を追いかけた。

 


辺りを見回すと漁夫の砦まで来ていた。少年は砦の出窓のようなところに座っていた。

今度は驚かせないようにそろりそろりと近づいていく。足の感覚がなくなってきた。顎を引いて自分の脚をみると闇に紛れて見えなくなっている。老いた脚はなくなり、どこまでも走れそうな気がした。

 


すぐそこに少年はいる。こちらに背中を向けて座っている。台所に立った妻を思い出した。

 


少年は座った状態から膝を下ろして小さく跳ねた。夜景に続く道があるかのように、そのまま空中に着地して歩いて行った。

 


腕を掴まれたのは幻覚ではなかったが、真下に地面がないのも幻覚ではなかった。

僕の上半身は既に空中にあり、同僚の警備員が腕を掴んで現実に引き戻してくれた。

 


ブダペストの夜景は人を呑み込む。