春はいつまで寝てるのか

旅についての記憶を。

透明なモスクワ

待ち合わせをしていた。

待ち合わせというのは、大抵が目的地の近くの駅だったり、その日予約している店だったりする。ただその日は違っていた。

家を出てから既に半日ほどの時間が経っているのにも関わらず、時計の針は半分しか進んでいなかった。ツカヤは小学生の時からずっと住んでいる高円寺の駅から、電車と飛行機を乗り継いではるばるロシアの首都に来ているのであった。

 


「珍しくおばあちゃんから手紙が来ているわ。見ておいてね。返事の手紙は引き出しの一番下の便箋を使って。なかなか減らないのよ。」

 


母から渡されたものは、僕宛ての手紙だった。高円寺に越してきてから、1度しか会いに行っていない祖母からだ。会いに行った時のことを思い出そうとしてもあまり上手くその光景が思い浮かばない。10年近く前のことだということを考えれば、ごく自然のことに思えた。

 


封を開けると、いつまで経っても違和感が残る文章が目に飛び込んでくる。ツカヤの祖母はロシア人であり、貿易関係の仕事でロシアに駐在していたツカヤの祖父と結婚してから日本語の文字が書けるようになったのだ。

 


母の使う日本語に違和感はあまり感じないものの、ロシア人の血をひいていることを感じさせるのはその目の色だった。ハーフである母親の顔立ちは息子から見ても整っていると思わざるを得ない。若い頃の自慢話は飽きるほど聞いていたけれど。

 


「2月の1日に赤の広場に来てください。渡したいものがあるのよ。お母さんには話を通しておくから。」

手紙の内容はこのようなものだった。今どきそんな内容を伝えるだけなら電話でもメールでもいいというのに。口をついた憎まれ口とは裏腹に、少し浮かれている自分がいた。

 


次の朝母親に確認すると、昨日のうちに連絡があったという。そこからはつまらないが故に長く感じた日常が、早く過ぎるようになった。

 


1月のカレンダーも残り少なくなってきたところでツカヤのもとに再び手紙が届いた。

基本的に待ち合わせの詳細について書かれていた。しかしその中には、日本語の間違いとは考えづらい箇所があった。

 


「赤い帽子、青い目、黄色い靴。あなたと同じくらいの女の子が赤の広場にいるわ。待ち合わせの相手はその子よ。きっと街を案内してくれるわ。」

 


呼び出した上に知らない人と会わせるのかと苦く感じながらも、久々のモスクワ観光を用意してくれたことに対して悪い気はしなかった。

国籍を選ぶ権利があった母親とは違い、はじめから日本人として育ったツカヤでも、モスクワには行くではなく帰るという感覚がある。

 


待ち合わせをしていた。

足元には石畳が並び、見上げるとどんよりとした空が広がっていた。遠くには見覚えのある赤い建物が幾つかあったが、名前まではうまく思い出せずにいた。

 


手紙を確認すると指定された時間まではあと少しあった。なにか変わったところはあるかと、一歩ずつ少しの緊張を石畳に伝えながら見て回った。旧ソ連の時代のものなんて変わるわけがないのだけれど。

 


彼女は突然立っていた。

立っているというのは行動ではなくて状態なのだから、突然というのはおかしいのだけれど、その表現が適しているように思えた。

 


その彼女は赤い帽子に黄色い靴を履いていた。こっちに来てからほとんどの人が青い目をしているので、青い目そのものは珍しくなかったが、覗き込んで見つけた目はとても深い藍色だった。

 


顔を上げた彼女に自分の名前と祖母の名前を告げ、反応を待った。ただ彼女は立っていた。英語の発音が悪かったのか、少し焦った僕は祖母からの手紙を見せた。そこにはロシア国内用にキリル文字で祖母の名前と住所が書いてあった。

 


それをみて合点がいった表情をすると、彼女はくるりと方向を変えた。僕に背中を向けるとすぐに歩き出した。

 


「待ってよ。」

 


僕がとっさに出したその声も聞こえているのか分からない。僕が来た道を引き返すように歩みを進めていく。それは観光案内というより、マラソンの練習が始まったかのようだった。

 


一番近くのメトロの駅まで行くと、なんの迷いもなく改札の中に入った。旧ソ連の象徴である赤色の切符を通すと、終わりが見えないほど長いエスカレーターに彼女が乗った。ほの2段上に僕が乗った。

 


モスクワの地下鉄は美しい。大理石で覆われたホームは、間違えて職員通路から博物館に入ってしまったような後ろめたささえ感じさせた。

日本のそれとは比べるのもおかしく感じた。

 


それに加えて、モスクワの人たちは高い天井、並ぶ大理石、手榴弾を片手に持った兵隊の銅像には目もくれずに日常を過ごしている。背景としてある種の完全さを成していた。

 


2分ごとに凄まじい音を立てて迎えに来てくれる電車に乗り込んで、路線図を見ていた。日本の路線図とかなり似ていたが、東京より大阪の地下鉄に近い気がした。

少し目を乗客に移すと、何かが違う。表情が厳しいのは特徴なのだが、背が大きいだけなのか。いや、スーツの人が極端に少ないんだと気づいた。

 


炭鉱のトロッコのような音を立てて次の駅に停まると、彼女は開いた扉の向こうへ出てしまった。ここが目的地なのかと思い、赤い帽子を追う。一向に改札を出る気配がない。乗り換えるわけでもなく大理石を踏みしめていく。

 


そうやって丁寧に一駅ずつ降りていく作業が何駅か続いた。

そのうちの2駅では乗り換えもした。

その作業は手順が決まっているかのように、確信を持って、淡々と行われた。

 


ついに改札を出た。アルバーツカヤ駅という看板を背に進む。

 


地下道路に入ると若者がバンド演奏をしている。北欧でのメタル人気が高いように、寒い地域に流行っているのか。ひどく耳をつく音楽だった。普段なら少し俯いて足早に通り過ぎる僕だが、そこでは止まった。彼女がバンドの方を向いてじっと睨むようにして目線を送っていたからだ。

 


「君はこういう種類の音楽が好きなの?」

 


僕の投げかけた言葉が彼女に当たり、こちらを向いた。なにかを言いかけて、やめてしまったようにみえた。その代わりに僕の手を引き地上に出た。連れていかれたのは集合場所である赤の広場だった。

 


電車で一周しただけだったらしい。

少し遠くに焦点をあてて辺りを眺めていると、見覚えのある人がこちらを見つめているのが分かった。祖母だ。

思わず駆け足で近づいた。

 


彼女にそれを知らせようと後ろを振り返ると、姿はなかった。

 


「綺麗な子だったでしょう。」

 


「一言さえ口を利いてくれなかったけれど。さっきまでそこにいたのにどこに行ったんだろう。」

 


僕は連れまわされたことを思い出して、憎まれ口を叩いた。

 


「口を利くどころか、耳も聞こえないのよ。利口なんだけどね。さあ行きましょう。渡したいものが待っているわ。」

 


祖母は歩き出してしまう。

 


「その前に、彼女は誰だったの。」

 


僕の声はタイミングよく横切った男の人にかき消されてしまった。

 


祖母との歩幅の違いを測りながら、10年前を思い出した。抽象的な、教訓とも取れるようなことを言われたのをひどく鮮明に覚えている。彼女は、祖母にとって、僕にとってどんな意味を持っているのだろう。

 


きっと、赤い街で出逢った藍色の両目を忘れることはない。