ウィーンでは女神が歌う
21歳。はじめての海外旅行。
その場所に選んだのはオーストリア、ウィーンだった。
一番懸念していた鉄の塊が空を飛ぶかどうかという問題はクリアされたみたいだ。気づいたら乗り継ぎのドイツに着いていた。
そこから飛行機を乗り換え1時間半ほど経つと目当てのウィーンに着いた。
僕は都内の大学に通っているけれど、未だに実家の船橋にいる。悪い街ではないが、都心からだとどうしても時間がかかりすぎる。
サークルの飲み会の二次会に行かなくてもいい免罪符を持っていることは、よく羨ましがられる。でも家に着く時間はみんなとさほど変わらない。
そんな飲み会、それも忘年会の一番端の席に座り、好きでもないハイボールを少しずつ飲んでいた。
「就活始まる前に海外行きたい!みんなどこかおすすめの国ない?」
「ウィーン」
僕はむせてしまった。
凛が積極的に口を開くこと場面をあまりみたことがなかったからだ。あるいは、僕が凛の横顔を見ていたということもあるかもしれない。
話を振ったお調子者の遼も少し驚いたように見えた。
「ウィーンって、オースト、リア、だったよね?何があるの?」
「オーストリアの首都。芸術の街。私はオーストリア国立図書館がすき。」
「へー!めっちゃよさそう!」
そこで会話は発散した。
凛の言葉は、他のみんなを黙らせる力を持っている。
「ウィーンがいいです。」
僕は気付くと、そう口走っていた。
当たるはずがないお正月、商店街の福引に当たってしまったのだ。その一等は、海外旅行券だった。
幼い頃から知っているおじちゃんに、どこ行きたい?と聞かれて、忘年会の凛の言葉がよぎった。知識は微塵もなかったのに。
愛想笑いを浮かべながらも、心は浮き立っていた。
はじめての出国検査を済ませて、スーツケースを受け取ると、ガイドブックを見ながら市街地の方に向かった。
すれ違う人は、かなりの割合で僕より背が高い。そして目が青い。飛行機で座り続けたことも手伝って、僕の疲労は全身に広がっていた。
広い通りに出て少し歩くと僕は座り込んでしまった。日本から持ってきた緑茶の残りを飲み干して顔を上げると、空になったペットボトルが地面に落ちたときの軽い音がした。
シュテファン大聖堂を前にして、指の力が抜け落ちてしまったのだった。そうして20分は経っただろうか。やっと我に返り、その美しさを写真に残した。
さて、とスーツケースの方に手を伸ばすが感触がない。
そこにあるはずのスーツケースは姿を消していた。足が生えて、一人でウィーン観光でもしているのかと思われたほどに、完全に姿を消していたのだ。
すぐに辺りを見回すと、僕の黒いスーツケースを持っている人が小走りで路地に入ろうとしている。追いかけようとしたその時に、視界の右端にも僕のスーツケースを捉えた。
僕は、黒いスーツケースは世界にいくつあるのだろうと考えてやめた。きっとこの広場のどれを確認しても、僕のスーツケースではない。
そこからまた1時間途方に暮れた。不幸中の幸いといえるのか、パスポートとdocomoしか繋がらないスマホ、幾らかの日本円は残っていた。しかしそれ以外にあるものと言えば空になった緑茶のペットボトルくらいなものだった。
スマホの電源を切ると、社会から断絶された音がした。開き直った僕は凛の言っていたオーストリア国立図書館に向かった。
入り口は少し分かりづらかったが、有り金をはたいて中に入った。博物館のような内装で、凛の言っていることが少しは理解できた。しかし、図書館の中はそこまで広いわけではなく、30分も見ると満足した。
昔から計画性に欠けると言われてきただけあって、とりあえず閉館までは図書館の中で人間観察をすることにした。
様々な人種、そして旅行者が多いと、同じ団体同士の関係をあれこれ考え尽きない。
周りの人を見ながら、少し邪道な道をぶらぶらしていると、扉に出くわした。ロッカーなのか?一度後ろを振り返り、誰もみていないことを確認する。
扉は大きめの音を立てて開いた。ただ、入ってはいけないようにはみえない。
そこには本はなかったが、地下に繋がる階段があった。地下書庫に繋がっているのだろうか。
細めの通路を歩いていく。暗いけれど、定期的に電灯がついているので道を把握することはできる。道が分岐しているところは全て左を選んだ。
次の分岐点も左を選ぼうとしたが、右手は上りの階段が奥に見える。
思い切って上がってしまうと、歌が聞こえた。第二外国語としてドイツ語を取っていた僕は、その歌声がドイツ語だということを確認した。
そこはオーストリア国立歌劇場だった。
焦って階段を降りた。階段を見つけるたびに地上を覗いた。どこも地球の歩き方でみたような景色だった。
もしかしてこの小さな街ウィーンは地下で全て繋がっているのではないか。
そう直感した。右の方から声が聞こえたのも同時だった。足音がこちらに向かっている。
まずい。
荷物は何も持っていない僕は出来る限りの速さで走った。幼稚園の節分を思い出した。僕は鬼が来たら豆を投げるより、豆を投げ出して逃げるタイプなのだ。
その分岐点を左に折れると階段があった。助かった、と思い何時間ぶりかに陽の目をみた。
そこは、シュテファン大聖堂からそう遠くない場所だった。一刻も早く立ち去りたい。
疲れた体を反転させると、凛が立っていた。
僕は精一杯笑ったが、涙は流れていた。